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「守護梵字」について

守護梵字について

弘法大師「空海」が伝来させて密教と密接な結びつきがあり、古代サンスクリット語に基礎にもなっている文字です。

密教の世界は曼荼羅に集約されるように大日如来を中心として仏の意思が宇宙を貫き、宇宙そのものの体言を表したものです。

即ち、そこに描かれた仏菩薩や神々の色、形・位置・持ち物など全てが宇宙の真理とシンボライズしており、それを目で見ることにより人間は宇宙の真理との交流を体験できるという、極めてダイナミズムな世界です。

梵字の事を悉曇(しったん)文字、または種子(しゅじ)とも言い、曼荼羅を文字で表現したものが種子曼荼羅です。

寺院、大師などでは昔から、経文、護摩札、卒塔婆など仏教上の特別な権威ある象徴として見る者に強いインパクトを与えております。

彫銀ではこの守護梵字をモチーフにした製品に拘り、そして自信を持って制作しております。

守護梵字入りのアイテム一覧


・子(ネズミ)年生まれ

  【千手観世音菩薩(せんじゅかんぜおんぼさつ)】

 千の慈眼と慈手で一切の悩みを救い、願い事を全て叶えて下さるという観音様です。

・戌(いぬ)亥(いのしし)年生まれ

  【阿弥陀如来(あみだにょらい)】

 大慈悲に浴して、一切の苦難災難を逃れ、又福徳長寿が授かります。



・丑(うし)、寅(とら)年生まれ

  【虚空増菩薩(こくぞうぼさつ)】

 すべての福徳と知恵を授け、特に記憶力向上、厄除け症病回復にご利益のある仏様です。


・卯(うさぎ)年生まれ

  【文殊菩薩(もんじゅぼさつ)】

 知恵の仏として学業の功徳が顕著。苦労や災難を五知の県で断ち、幸福を招いてくれます。


・辰(たつ)、巳(へび)年生まれ

 【普賢菩薩(ふげんぼさつ)】

 文殊菩薩と共に釈迦如来の脇士とし白象に乗った菩薩です。長寿を授けてくれます。


・午(うま)年生まれ

 【勢至菩薩(せいしぼさつ)】

 阿弥陀の脇士として慈悲と知力を象徴し、邪気を払い、進路を開き、福徳長寿を授けます。


・未(ひつ)、申(さる)年生まれ。


 【大日如来(だいにちにょらい)】

 あらゆる災厄苦難を除き、将来への道が明るく開けるよう、福徳と長寿を授けます。


・酉(とり)年生まれ。


  【不動明王(ふどうみょうおう)】

  全ての災難を除き、光明の道へと導いて福徳を授けてくれます。


【大日如来(だいにちにょらい)】
(八葉院の中心に位置する仏)

 この如来を尊崇すればあらゆる霊徳を得られるとされる。
 真言を唱えれば一切の病は癒え、また妊娠している人は無事安産出来るといわれております。

「梵字と密教」について

梵字と密教について

密教の根本教典が有名なのは「大日経」(正式名称を「大毘廬遮那成仏神変加持経」)と 「金剛頂経」(正式名称「金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経」)の2つです。

通常、仏教の教典は仏陀である「釈迦」が説法したものをまとめたものですが、 密教教典の大きな特徴は教典の説き手が「大日如来」であることです。



その「大日如来」の本質と活動を示しているのが、金剛界、胎蔵界、二つの曼陀羅です。

「大日経」が世界に生きる者は「大日如来の理性」において、平等である世界−胎蔵界を明らかにしているのに対し、 「金剛頂経」では大日如来の知恵の世界−金剛界を明らかにしています。

その悟りの内容を具体的に示したのが曼陀羅です。
また、曼陀羅は諸尊を種子(梵字)一字で表したものもあり、そういう意味では教典も曼陀羅の一種とみなされます。




曼陀羅の世界を体得する悟りの境地とは、即身成仏です。

荒行を積んだ行者が「阿闍梨」の許可を得て、三密の行(身体・言語・精神)に入ります。
本尊の前に座し、手に印相を結び、口に真言を唱え、精神を集中させて本尊を観想し両者が一体に解け合うまで修行します。

そのようにして行者は、父母から受けたその身体のままで、現世において悟りを得ます。
すなわち、即身成仏です。

その過程の多数の瞑想の中で梵字を利用した瞑想「阿字観」があります。
阿字観とは、梵字の阿字を観想し、阿字の中に我有り、我の中に阿字ありといったさまざまな観点から瞑想を行う修行です。




「阿字」とは・・・・・生まれてないもの、生まれなきもの、つまり他者によって生み出されたものでもなく、 また自己によって生み出されたものでもない時間も空間も超越した存在を表す梵字です。




よって「阿字」はあらゆる梵字を代行する事ができる梵字です。
阿字観の修行を一歩進めて「阿字」を心の中に観じた後、 この阿字を変化させ自分が思い描きたい仏の種子(梵字)に変化させて行きその梵字を通じて、 おのおのの仏について観想するこれが悟りの境地(三摩地)に導かれて行くのです。




また、「阿字観」を始める前に「九字」と呼ばれる邪念を祓う技法があります。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」の真言を唱えつつ、すばやく印相を結びあるいは、 手刀により空間を縦横に切り邪を祓います。

その他お馴染みの「護摩」「祈祷」「不動金縛り」などの修法があります。




すべての宗教にとっての最も重要なテーマが「煩悩をどう扱うか」である。

密教では人間的な欲望もまた宇宙生命につながるものとして、全面的な否定はしません。

煩悩を含んだこの現実世界のすべてを肯定しその中に理想形態を見出し、 現実世界の中に絶対の世界を実現するのが密教の理想なのです。

守護梵字入りのアイテム一覧

「孫子」について

孫子について

中国の代表的な兵法書。全十三編
春秋時代の斉の人物「孫武」の著であると史記は伝えています。

日本でも孫子の兵法として広く知られ、古来より孫子を愛した名将は数多くおります。

三国志の英雄「曹操」、武田信玄、ナポレオンなどが有名です。

  <孫子> 謀攻編の一節

故曰、知彼知己、百戰不殆。不知彼而知己、一勝一負。不知彼、不知己、毎戰必敗。

故に曰く、彼を知り己れを知れば、百戦して殆(あや)うからず。
彼を知らずして己れを知れば、一勝一負す。
彼を知らず己れを知らざれば、戦うごとに必ず殆うし。

「敵を知り己を知るならば、どんなに行動しても失敗する気遣いはいらない」

「自己を知り相手を知らなければ、成否の確率は五分五分」

「相手も自己も知らなければ、必ず失敗する」



<孫子> 軍形編の一節

孫子曰昔之善戦 者先為不可勝似 待敵之可勝不可 勝在己可勝在敵
故善戦者能為不 可勝不能使敵之 必可勝故曰勝可 知而不可為不可
勝者守也可勝者 攻也守則不足攻 則有餘善守者蔵 於九地之下善好
者動於九天之上 故能自保而全勝 也見勝不過衆人 之所知非善之善
者也戦勝而天下 曰非善之善者也 ○○○○○○○ ○○○○○○○

孫子曰く、昔の善く戦う物は先ずかつべからざるを為して、以て敵の勝つべきを待つ。

勝べじからざるは己れに在るも、勝べきは敵に在り。

故に善く戦う者は、能く勝つべからざるを為すも、敵をして必ず勝つべからしむこと能わず。

故に曰く、「勝は知るべし、而して為すべからざる」と。

勝つべからざる者は守なり。勝つべき者は攻なり。

守は則ち足らざればなり。攻は則ち余り有ればなり。

[→守らば則ち余り有りて、攻むれば則ち足らず]

善く守る者は九天の上に動く。故に能く自ら保ちて勝を全うするなり。

勝を見ることは衆人の知る所に過ぎざるは、善の善なる者に非ざるなり。

戦い勝ちて天下善なりと曰うは、善の善なる者に非ざるなり。

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<守備は攻撃よりも強力>

古代の巧みに戦う者は、まず敵軍が自軍を攻撃しても勝つことのできない態勢を作り上げた上で、敵軍が態勢になるのを待ちうけた。

敵が自軍に勝てない態勢を作り上げりのは己れに属することであるが、自軍が敵軍に勝てる態勢になるかどうかは敵軍に属することである。

だから巧みな者でも、敵軍が決して自軍に勝てない態勢をつくることはできても、敵に態勢を崩して自軍が攻撃すれば勝てる態勢をとらせることはできない。

そこで、「敵軍がこうしてくれたら自軍はこうするのに、と勝利を予測することはできても、それを必ず実現することはできない」と言われるのである。

敵が自軍に勝てない態勢とは守備形式のことであり自軍が敵に勝てる態勢とは攻撃形式のことである。

守備形式を取れば戦力の余裕があり、攻撃形式を取れば戦力が不足する。

古代の巧みに守備する者は、大地の奥底深く潜伏し、好機を見ては天空高く機動した。

だからこそ、自軍を敵の攻撃から保全しながら、しかも敵の態勢の崩れを素早く衝いて勝利を逃がさなかったのである。

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<勝利の軍は開戦前に勝利を得ている>

勝利を読みとるのに一般の人々にもわかるようなものがわかる程度では、最高に優れたものではない。

戦争して打ち勝って天下の人々が立派だとほめるのでは、最高に優れたものではない。


 
<孫子> 軍争編の一節

其疾如風 其徐如林 侵掠如火 不動如山 難知如陰 動如雷震

其の疾(はや)きこと風の如く 其の徐(しずか)なること林の如く
侵掠すること 火の如く 動かざること山の如く 知り難きこと陰の如く 動くことは雷の震うが如く


軍事行動は敵を欺くことを基本とし、利益に従って行動し、臨機応変の処置を取る。

その行動を例えると 疾風のように迅速に進撃し、林のように静まり返って待機し、火が燃え広がるように急激に侵攻し、山のように居座り、暗闇のように実体を隠し、雷鳴のように突然動き出す。

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孫子モチーフのアイテム一覧

「九字マントラ(真言)」について

九字マントラ(真言)について

「臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、前」の 九つの文字から成る密教の邪気を払う真言。 この九字の意味は『臨める兵、闘う者、 皆陣をはり列(烈)をつくって、前に在り』というものです。


【九字を切る】
まず手で刀を模した印「刀印」 を作り、「臨兵闘者皆陣烈在前」の掛け声とともに空間を縦四本、 横五本に切り邪気を祓います。


【九字の印を結ぶ】
「臨兵闘者皆陣烈在前」それぞれに対応した「印」があり、九字真言を唱えつつ、すばやく手による印を作ります。印は仏と修行者を結ぶしるしであり、神聖な力を宿しています。この印の力で内なるもの外なるものすべてに神聖な波動を送り邪気を祓います。この時、阿字観によって研ぎ澄まされた洞察力を駆使して印の意味を理解し体得した時こそ完全な力を発揮します。


「臨」
普賢三昧耶印
「兵」
大金剛輪印

「闘」
外獅子印 

「者」
内獅子印
「皆」
外縛印

「陣」
内縛印

「烈」
智拳印
「在」
日輪印

「前」
隠形印


「臨」 普賢三昧耶印 「兵」大金剛輪印
「闘」外獅子印 「者」内獅子印
「皆」外縛印 「陣」内縛印
「烈」智拳印 「在」日輪印
「前」隠形印の九印です。


修験道では九印に毘沙門天、十一面観音、如意輪観音、不動明王、愛染明王、正観音、阿弥陀如来、弥勒菩薩、文殊菩薩などを本地仏として配当する説がある。陰陽道に行くと、青龍、白虎、朱雀、玄武、勾陳、帝台、文王、三台、玉女、と唱えます。


歌舞伎の勧進帳の中の一場面。
富樫と弁慶の問答の中にも九字の真言が登場いたします。

「九字の大事は深秘にして、語り難き事なれども、疑念を晴らさんその為に、
説き聞かせ申すべし。それ九字の真言といつぱ、所謂、臨兵闘者皆陣烈在前の九字なり。将に切らんとなす時は、ただしく立って歯を叩くこと三十六度、先づ右の大指を以って四縦を描き、後に五横を書く。その時、急々如律令と呪する時は、あらゆる五陰鬼、煩悩鬼、まった悪魔外道死霊生霊、立ちどころに亡ぶること、霜に熱湯を注ぐが如し。実に元品の無明を切るの大利剣、莫耶が剣もなんぞ如かん。武門にとって呪を切らば、敵に勝つこと疑いなし。まだこの外にも修験の道、疑ひあらば、尋ねに応じ答へ申さん。その徳、広大無量なり。肝にゑりつけ、人にな語りそ、あなかしこあなかしこ。大日本の神祇諸仏菩薩も照覧あれ、百拝稽首、畏み畏み謹んで申すと云々、斯くの通り… 」

「曼荼羅」について

曼荼羅について
曼荼羅(mandala)とは、古代インドのサンスクリット語であり、
音写して漢字で「曼荼羅」「曼陀羅」と書きます。

(manda)→「本質」「心髄」「醍醐」などの意味

(la)→「所有」を意味



つまり曼荼羅とは「本質を持てるもの」の意味となります。

日本伝来の密教では「輪廻具足」と訳し、種々様々なものが車輪の様に雑然とではなく、
秩序整然と中心に向かって集まり円満に調和している意味とされていました。

すなわち、曼荼羅に描き出された各尊は、本質的なる中心(大日如来)の表れとされています。

彫銀の「曼荼羅シリーズ」は、下の2つの絵に、模様が似ていることから名付けられたものです。

「八葉」について

中台八葉院について


胎蔵界曼荼羅に描かれた中心部分。

大日如来(アーク)を中心に 宝幢如来、普賢菩薩、開敷華王如来、文殊菩薩、

無量寿如来、観自在王如来、天鼓雷音如来、弥勒菩薩の 四如来、四菩薩が描かれており、

大日如来の生命の動きを四如来が教え、 四菩薩が実践していくという

曼荼羅の神髄を表現したものである。

「金剛杵」(ヴァジュラ)について

金剛杵(ヴァジュラ)について

密教では、さまざまな儀式や修行に用いる武器や道具を、人間を法に導く器具すなわち「法具」と呼び、

普段の生活で使用される「道具」とは厳密に区別されています。


曼陀羅も「法具」の一種です。


その他代表的な「法具」に金剛杵(ヴァジュラ)があり、あらゆる煩悩を打ち破る堅固不壊の心を表示

するものです。

元来は古代インドの武器だったものが「法具」に転じました。


両端が五股のものを五鈷杵、三股のものを三鈷杵、一つの突起のものを独鈷杵といいます。

皆様も、川崎大師や成田山などの真言宗、天台宗の寺院で僧侶が説法の時などに必ず、手元に

置いてあるのをご覧になった事があるのではないでしょうか。

「四天王」について

四天王について


密教の宇宙観の象徴的なものに須弥山(しゅみせん)という山があります。

それによれば世界は風輪、水輪、金輪という途方もない大きさの円盤が重なった上に

須弥山という山が立っていて、山頂には帝釈天を始めとする

三十三の仏尊が住んでいるといわれています。

その高さは180万キロメートルあり、そのはるか上空には

何層にも渡って如来や菩薩の住む「天界」があります。


人間界は須弥山の裾のにある「閻浮堤(えんぶだい)」という島の一つにあり、

その地下には「八大地獄」が待ち受けています。

この密教的宇宙観の象徴である「須弥山」が100億集まって1枚の蓮華葉となり、

1000枚の蓮華葉からなる蓮華台に毘盧遮那仏(大日如来)が座しているという、

人智を超えたスケールの世界なのです。


その須弥山の中腹で、帝釈天の部下として、

須弥山の東西南北4つの門を守ると言われているのが「四天王」です。



北倶盧洲(ほっくるしゅう)を守る 多聞天(毘沙門天 ベイ
東勝身洲(とうしょうしんしゅう)を守る 持国天 ヂリ
南贍部洲(なんせんぶしゅう)を守る 増長天
西牛貨洲(せいごかしゅう) を守る 広目天 ビー


古来より4強を意味する言葉でもあり威厳ある武人の姿である四天王は、

金剛杵(ヴァジュラ)を手に持ち、邪鬼(天邪鬼)を踏みつけたその姿は、

すべての邪悪な者を打ち負かすと言われています。

日本でも古来より各地で「四天王像」が作られ、如来や菩薩を守る守護神として崇められてきました。

東大寺戒壇院や法隆寺金堂の四天王像は、現存する最古の作例として有名です。

「阿吽」について


阿吽(あうん)について


阿吽とは梵字の始まり「ア」字と終わりの「ウーン」を 合わせたところから由来した言葉です。

「ア」と口を開け、「ウーン」で閉じる。

つまり物事の始めと終わり、ひいてはあらゆる万物を表す言葉として古来より使われてきました。

まさに密教的宇宙観の象徴とも言えるでしょう。

東大寺南大門の金剛力士像に代表されるように、寺の山門には口を開けた阿形、閉じた吽形、

一対の仁王像があり、神社の入り口には同じく一対の狛犬(獅子)が配置されています。

これは、あらゆる邪悪なものを退ける意味合いを持っています。

俗に「阿吽の呼吸」という言葉がありますが、これなども、「阿吽」という言葉から由来しています。

「龍」について


龍について

彫銀龍


龍の起源

龍は、インドの神話や中国の神話に登場する伝説上の動物です。

悪の化身とされている西洋のドラゴンとは全く異なり、東洋、 特に中国においては三皇五帝の神話から四霊(麒麟、鳳凰、亀、龍)として、あるいは皇帝始祖として、存在しました。

特に完成された「龍」は漢の高祖以来、歴代皇帝の象徴として宮殿、 玉座、衣服、その他美術品など「皇帝コレクション」に描かれています。

龍顔、龍車、などに天子まつわる漢語や物語も含め、 中国の龍は日本でもかなりお馴染みな存在となっています。



日本の龍

日本には、4〜5世紀頃、神の使いとして 中国から伝来したと言われています。

蛇(おろち)信仰の地盤があった我が国では 当初から比較的抵抗なく受け入れられ、 雲雨を自在に操る水神として崇められ、やがて 四神(白虎、朱雀、玄武、青龍)となり、都の守護神として定着しました。


その後、時代を経るに従い神道だけではなく 仏教の宗教思想とも融合し「龍神」「龍王」として独自の神格化を遂げてきました。
ここで日本の龍が誕生したのです。


以来、日本の龍は画家や工人達の匠の心を捉えて離さない、最高の題材としてゆるぎない地位を築いてきました。



彫銀の龍

私共「彫銀」も、森羅万象を一切守護すると言われる、迫力ある「日本の龍」を目指しております。

そして、時代に媚びない最高の龍を大切にし、 皆様へ伝えて行く努力をしていきたいと考えております。



龍のつく用語

蛟 龍 未だ龍とならない蛟(みずち)、水中に潜み雲雨に乗じて天に昇る
臥 龍 野に隠れて世に知られていない大人物(特に諸葛亮 孔明を示す)
白 龍 天帝の使者、朝鮮で高位の龍
青 龍 四神の一つ
龍 門 登竜門、黄河中流山西、陝西両省の境、鯉がここを登ると龍になるといわれる
龍 鱗 老松の皮
龍 笛 昔々、龍の声を真似て作ったといわれる雅楽の横笛
龍 顔 天子の顔
龍 眼 天子の目
龍 車 天子の専用車





「輪法」について


輪法について

輪法とは梵語(サンスクリット)のダルマ・チャクラDharma-cakraの漢訳で、

敵を打ち破る武器から法具へ転じたものを言います。

車の輪が回り続けるように、未来に向かう 仏の教えすなわち仏法を象徴しています。

彫銀のチャクラペンダントは、この輪法をイメージし作られたものです。

「鬼」について


鬼について



古来より、日本では建物に鬼面を飾り家の安穏を祈りました。

それが後に、鬼瓦と呼ばれるようになり瓦屋根の四方に取り付けられ、家内安全の守り神として広まっていきました。

寺院の屋根にも数多く見られますが、本来は仏教上では鬼の存在は邪悪なものの象徴であり、 毘沙門天に踏みつけられる天邪鬼が良い例です。


ただ、私見ですが、「毒は毒を以って制する」のことわざに言われるように、 「邪悪には邪悪を」という逆説的な考えから発達したのではないかと考えられます。


すべての煩悩や邪気を振り払うとされている密教法具「金剛杵」などにも 鬼面が入ったものが多く残されており、寺の山門で睨みを利かす「仁王像」と同様に、 鬼という存在がいかに重視されてきたか窺い知ることができます。


鬼瓦の種類は無限に存在し、鬼瓦職人のこだわりが詰まった、まさに日本の芸術品です。

皆様も、寺院参拝の折にはぜひじっくりと鬼瓦を鑑賞していただきたいと思います。

「江戸小紋」について


江戸小紋について


江戸小紋とは、江戸時代に発達した、型紙を使い精密な文様を染めていく技法です。

小紋の発生は遠く室町時代に遡りますが、江戸時代に武士の裃小紋から始まり、江戸中期には

町人文化の自由で粋なエッセンスが詰まった小紋が幅広く使われるようになりました。

江戸小紋の特徴は何と言ってもその微細な幾何学模様と単彩な中にも格調高い趣きです。

型紙を使って染めるため細かい柄ほど型彫りも染めも技術が高度なため、

こぞって細かい柄に挑戦し技を競い合い発展いたしました。


現代においても、着物はもちろん、手拭い、和装小物、壁紙などに幅広く使われております。

文様の種類も多岐に渡り、亀甲、青海波、綾形、麻の葉、籠目・・・・・

などなど、何百年もの間、日本人に慣れ親しんで来たデザインは、いまなお古さを感じさせず、

まさに江戸の香りを現代に届けています。

「巴紋」について


巴紋について


和風イメージの代表格「巴紋」・・・

皆様も神社仏閣などでお馴染みの紋章ですね!

元来、平安時代に制定された紋章でしたが、後世になり、巴紋が弓矢の神である

八幡宮の「神紋」と見なされるようになったため、

武家はこれを家紋として神助を受けようとし

巴紋は菊紋、桐紋に次いで多く使われるようになりました。

右二つ巴、左二つ巴、右三つ巴、左三つ巴、陰陽・・・・

などなど数十種類の巴紋がありますが、

なんといっても一番みかけるのは「三つ巴紋」でしょう。


現在でも、お祭りの太鼓や半纏や手拭いなどにはかかせない定番文様となっています。


「三つ巴の戦い」などに象徴されるように、360度の対称形をなした形は、

古来の「勾玉」を彷彿とさせる究極のフォルムであり、

日本人の心を捉えて離さない味わいがあります。

「クリスタル」について


クリスタルについて


水晶は鉱物としては、石英(クオーツ)に属しています。

そして石英の中で透明な良結晶をとくに水晶と呼びます。

結晶の代表として英語ではロック クリスタルと呼ばれます。


この水晶に外部から圧力をかけると結晶の両端に電気的な分極ができ

圧電気現象と呼ばれる振動が現れます。


水晶は鉱物の中でもっとも純粋に近い化学組成を持ち、物理的性質が一定しているので

この震動特性が「クオーツ」と呼ばれる時計や送受信機に発振器として使われるのです。


「クリスタルパワー」や「パワーストーン」などと呼ばれるのもわかるような気がします。


通常、私達が思い浮かべる水晶のイメージは無色透明の石ですが、

水晶が結晶した時の化学成分、温度や圧力、または長い年月の間に他の鉱物と混ざったり

侵食をうけたりしてそれ以外の色々なの水晶が作られることもあります。



黒水晶(モリオン)、紫水晶(アメシスト)、黄水晶(シトリン)、紅水晶(ローズクオーツ)、

緑水晶(グリーンクオーツ)、煙水晶(スモーキークオーツ)、針入り水晶(ルチルクオーツ)、

草入り水晶、庭園水晶(ガーデンクリスタル)、等など。



たまには石の力を信じてみると、いつもと違った世界が見えてくるかも知れませんよ!!


「黄銅・赤銅」について


黄銅・赤銅について



【黄銅】


黄銅は銅と亜鉛の合金で、350年ほど前から世界中で使われる様になり、 日本でも江戸時代から刀剣装具や煙管などの装身具に使われてきました。

金や銀と違って適度な強度を持ち、 現在でもトランペットなどの金管楽器やアクセサリーなど幅広い用途に使用されております。

銀と同じ様ないぶし仕上げにより、陰影のコントラストがアンティークな雰囲気を醸し出します。 また赤銅と同様に発色処理(色揚げ)をいたしますと、光沢のある山吹色を発し、 金属とは思えないスタイリッシュな鮮やかさが特徴です。





【赤銅】


赤銅は銅に金を3%〜5%混ぜた日本固有の合金で、 古くから日本刀の鍔や根付などの装身具や美術工芸品に盛んに使われてきました。

色揚げと呼ばれる発色処理を施しますと光沢のある紫黒色を放ち、 その漆のような色合いが独特の高級感あふれる風格を表します。

塗装やメッキと違って合金そのものから発色する色ですので、 キズがついても経年変化による反応で自然と色が戻ってまいります。

われわれ彫銀は、古い文献を頼りに試行錯誤の末、 代々伝わる丹礬(たんぱん) 緑青(ろくしょう)大根おろし、重曹などを用い、 江戸時代と全く同じ技法で赤銅の色揚げ法を確立。見事な紫黒色の発色に成功いたしました。

このジャパニーズ・アンティークの代表とも言える素材を復活することが出来ましたのは、 武州伊藤派の末裔として喜ばしい限りでございます。

「篆刻書体」について


篆刻書体について


隷書、楷書、行書、草書と共に漢字五書体の一つ。

5500年程前の中国で考え出された甲骨文字が漢字のルーツと言われています。

時が下って、春秋・戦国時代には、各国で金文とし独自に発展していきました。

ただ地方ごとに文字はかなりの差異がありました。


やがて、紀元前221年始皇帝のもとに秦が全中国を統一します。

統一政策の一つとして、始皇帝は当時の秦地方で

使われていた文字(大篆と呼ばれる)を簡略化して統一書体としました。

これを小篆といい一般的に篆刻書といえばこの小篆を指します。


漢時代は主に印鑑用の書体として用いられ、

日本でも志賀島(福岡県)で江戸時代に発見された

後漢の光武帝から賜ったとされる有名な金印「漢委奴国王」も

この書体で刻まれています。


そして現在、その独特の味わいが今なお好まれ

主に実印等の印鑑用書体として幅広く愛用されています。

「上杉謙信」について


上杉謙信について


【軍神】


 上杉謙信は、越後守護代であった長尾為景の末子として誕生し幼名を虎千代と名乗った。
天文5(1536)年に為景が病死したため、家督を兄の晴景が継ぎ、 虎千代は春日山城下の林泉寺に入り7〜14歳の青年期を過ごすことになった。 謙信の、戦国武将としては珍しい深い学識、厚い仏心はこの時代に培われたといわれる。
 その後、元服し長尾景虎と名乗り、病弱だった兄に代わって家督を継いで越後守護代となった。

 謙信の戦歴は、元服をした天文12(1543)年に始まる。以降、武田晴信(信玄)や北条氏康、 織田信長といった戦国時代の名将と戦を重ねるが、その戦いは欲によるものではなく、 義を重んじ出兵したものだったといわれており、謙信の兵は時に「義軍」とも呼ばれた。
 武田晴信に領地を奪われた村上義清・高梨政頼らを助けるために出陣し、武田信玄と5回に渡り戦った川中島の合戦は特に有名。

 また敵対していた武田晴信が今川氏真によって塩を断たれた際、今川の行為を批判し、武田に塩を送ったエピソードも有名で、 江戸時代の陽明学者・頼山陽がこれを讃えて「敵に塩を送る」という故事が生まれたともいわれている。

 謙信の旗印「毘」の文字は、自らを生まれ変わりと信じ、厚く信仰していた毘沙門天からとったもの。 総攻撃の際に本営に掲げられた「懸り乱れ龍の旗」から、越後の龍とも呼ばれた。

 また戦に長ける反面、和歌にも通じ、達筆であったといわれる。内政や外交にも才を発揮し、 青苧(衣類の原料となる植物)を栽培し、日本海を通じて全国へ広め、それを財源にしていた。

 天正6(1578)年、享年49歳で人生の幕を閉じるが、その生涯は戦の連続だった。 また謙信が率いた上杉軍の強さは謙信の死後も、織田信長の支配地域において「武田軍と上杉軍の強さは天下一である」 と噂されるほどのものであった。

 妻を持たず生涯未婚を貫くなど、戦国武将としては異色の人物であったといえる。

 高いカリスマ性で多くの人々を魅了し、現代においても数多くの小説や映画、ドラマの題材として扱われている。

参考図書:花ヶ前盛明「上杉謙信」

「坂本竜馬」について


坂本竜馬について


【幕末の風雲児】


 幕末を代表する土佐人の一人である。

 北辰一刀流、桶町千葉道場で小天狗と称された若き日から、勝海舟に師事した幕府海軍での日々、 また亀山社中の発案から後の海援隊の結成、 お竜夫人とのロマンスや、有名な「船中八策」の献言、 なおかつ薩長連合の立役者としての一面等など、その実績には枚挙の暇が無いほど。

 無念にも閉じざるを得なかったその短い生涯を、力一杯生きて来た好漢は、 薩長、 左幕といった垣根を超越した卓見とユニークな発想で同時代の人々を も魅了した。

 幼い頃から広い海の向こうに広がる「世界」に目を向けていた竜馬。その颯爽としたイメージは今なお、 現代の若者の心をとらえて離さない。

「毘沙門天」について


毘沙門天について



 梵名は「ヴァイシュラヴァナ」といい、仏教において天部の仏とされる。

 持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神である。 また四天王の一員としてだけでなく、中央アジア、中国など日本以外の広い地域でも、独尊として信仰の対象となっている。 日本で は四天王の一尊として造像安置する場合は「多聞天」、独尊像として造像安置する場合は「毘沙門天」と呼ぶのが通例である。

 その姿は様々な表現があるが、日本では一般に革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表され、 邪鬼と呼ばれる鬼形の者の上に乗ることが多く、持物は宝塔や宝棒が一般的。

 例えば密教の両界曼荼羅では甲冑に身を固めて右手は宝棒、左手は宝塔を捧げ持つ姿で描かれる。 ただし、東大寺戒壇堂の四天王像では右手に宝塔を捧げ持ち、左手で宝棒を握る姿で造像されている。 (奈良當麻寺でも同様に右手で宝塔を捧げ持っている。)宝塔を持たず片手を腰に当て片手に三叉戟を持つ姿である。

「直江兼続」について


直江兼続について


【愛と義に生きた智将】


大河ドラマ「天地人」で主人公として取り上げられた事から一気に注目を浴びる事となりましたが、歴史好きの方々には以前から注目されておりました。

特に豊臣秀吉からの引き抜き行為を幾度も断り、主君である上杉景勝を補佐し続けた点など、忠義に厚い名将として人気がございます。

またそのユニークな兜の前立でも知られており、「愛」の文字を形どった前立を使用しておりました。

「愛」の文字の由来には諸説ありますが、有力な説としては 上杉謙信が毘沙門天の信仰を表した「毘」の字を旗印に使用するなど、その当時、神名や仏像を兜や旗などにあしらう事は広く一般に行われていたことから、「愛染明王」または「愛宕権現」の信仰を表したという説がございます。

その他にも、生涯において側室を持たなかった点(妻・お船の方との夫婦仲が大変良かったので側室を持つ必要が無かった。)や、領民の生活を第一に考え、領民を心から大事にしていたとして「愛民」の精神(領民のこと考えれば、本来は戦は避けるべきであるが、避けられない戦なら戦時であっても民を思い、民を愛するという精神)に由来すると言われております。

米沢へ転封となった際には、大変な財政難に陥りましたが、「人こそ組織の財産なり。」と言い、召し放ち等(現代で言うリストラ)を行いませんでした。

領地を1/4にまで減らされ大変厳しい暮らしを余儀なくなれましたが、兼続は家臣と家族3万人を養おうと、自らは質素な暮らしをしながら、懸命に国造りに取り組みました。

その当時はもちろん、兼続の死後も「米沢藩初代藩主上杉景勝を支えた文武兼備の智将」として山形県・米沢市をはじめ多くの人々に人気がございます。

「真田幸村(信繁)」について


真田幸村(信繁)について


【穏かなる軍師】



江戸期以降、講談や小説などで真田十勇士を従えて大敵徳川に挑む天才軍師・真田幸村(さなだ ゆきむら) として取り上げられ、本名の真田信繁(のぶしげ)ではなく、通称で広く一般に知られることになった武将です。

信繁の人柄は、兄・信之の言葉によると柔和で辛抱強く、物静かで怒る様なことは無いという、 およそ勇猛な武将のイメージとはかけ離れたものであったようです。

しかし、軍才に秀でた信繁の活躍については、 慶長19年(1614年)に始まる「大坂冬の陣」、続く翌年の「大阪夏の陣」での戦いが最も有名です。


実は、「幸村」の名前が史実に登場したことはこれまでに確認されておらず、 江戸時代の軍記小説作家によって作られた創作であるという説が有力です。
これは、彼が存命中に書いた書状には「信繁」や「弁丸」(幼名)の署名はありますが、 その他の信頼できる文献においても幸村という名は全く資料として発見されていない為です。

では本来の「信繁」ではなく、なぜ「幸村」という名前で呼ぶようになったのでしょうか?

その理由については諸説あり特定できていませんが、3つ程あります。

・伊達綱村の「村」と真田氏の諱である「幸」を組み合わせた
・姉である「村松殿」の「村」と真田氏の諱である「幸」を組み合わせた
・大坂の陣で「信繁」が「幸村」に改名した


没後、講談や小説などで描かれる、真田幸村や忍者部隊など幸村の家臣達が活躍する物語が人気になり、 本来の「真田信繁」ではなく、「真田幸村」の名前が急速に広がっていきました。

「漢文」について

漢文について


漢文とは中国古来の文語体の文章。または、日本語の古典的な文章語の文章のうち、漢字だけで書かれたものを指します。ここでは彫銀のアイテムに使用されている漢文についてご紹介致します。



【孫子】知彼知己百戰不殆 (謀攻編の一節から抜粋)
中国の代表的な兵法書。全十三編春秋時代の斉の人物「孫武」の著であると 史記は伝えています。

日本でも孫子の兵法として広く知られ、古来より孫子を愛した名将は数多くおります。 三国志の英雄「曹操」、武田信玄、ナポレオンなどが有名です。

故曰、知彼知己、百戰不殆。
不知彼而知己、一勝一負。
不知彼、不知己、毎戰必敗。

故に曰く、彼を知り己れを知れば、百戦して殆(あや)うからず。
彼を知らずして己れを知れば、一勝一負す。
彼を知らず己れを知らざれば、戦うごとに必ず殆うし。


「敵を知り己を知るならば、どんなに行動しても失敗する気遣いはいらない」
「自己を知り相手を知らなければ、成否の確率は五分五分」
「相手も自己も知らなければ、必ず失敗する」

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【朱子學】少年易老學難成
朱熹(1130-1200)朱子學として儒教の教えをまとめた人物。
その詩「偶成」の最初の句。

日本では江戸中期(1790)時の老中松平定信が行った寛政の改革で 學問の統制を行いました。定信は儒學のうち朱子學を正學とし、他を異學と位置づけ、役人登用試験も朱子學のみにしました。これが寛政異學の禁と呼ばれる制度です。幕府直轄の昌平坂學問所では、当時の武士たちに朱子學のみを講義し、 諸藩もこれに習う風潮があったと言われています。

少年易老學難成、一寸光陰不可軽

少年老い易く學成り難し、一寸の光陰軽んず可からず

若い時代はうつろいやすく、學問いうものはなかな成就しない。それゆえ、ほんのちょっとした時間すらも、おろそかにしてはならない

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【論語】學而時習之不亦説乎

論語とは、孔子(紀元前551−479)と その弟子達の対話をまとめた儒教の経典。 四書の一つ。全二十編。

中国人はもとより日本人の思想形成にも 多大な影響をもたらしました。特に江戸期、武家社会における道徳、思想の基礎を成し、幼少期より武士必読の書とされて来ました。孔子の説く「仁」はあらゆる徳目の頂点にあり、人が生きて行く上での理想の善を、簡潔かつ含蓄深い 言葉を使って教え示しています。 「宇宙第一の書」とも言われ、遠い過去から遥かな未来へと伝承されて行くべき、東洋が誇る伝統遺産と言えます。

<論語>學而編 第一

子曰、學而時習之、不亦説乎。
有朋自遠方来、不亦楽乎。
人不知而不温、不亦君子乎。

子曰(のたま)わく、學びて時に之を習う、亦説(よろこ)ばしからずや。
朋遠方より来たる有り、亦楽しからずや。
人知らずして慍みず、亦君子ならずや孔子云う。

學んだことを繰り返し実践していると、自然にいい習慣が身について来る。 これは何とも嬉しいことではないか。 志を同じくする友がはるばる遠方からたずねて来て、忽ち意気投合して語り合う。 これは何とも楽しいことではないか。世間に認められようが認められまいが、そんなことは気にせず一層研鑽に励む。 これは何とも立派なことではあるまいか。

漢文入りのアイテム一覧

「阿闍梨」について

阿闍梨(あじゃり)について


密教修行における荒行のひとつ「回峰行」という修行があります。

「回峰行」とは毎日休むことなく比叡山の峰をめぐり歩く修行です。

午前2時、白装束に身を包み、腰には降魔の剣を付けて、漆黒の闇に閉ざされた

比叡山に点在する堂、木、水など、あらゆるものに一人で礼拝してまわります。

その荒行を700日目の堂入り成し遂げた行者を「阿闍梨」、

千日を満行した行者は「大阿闍梨」と呼ばれます。

鬼人のごとく山中を飛ぶように歩くという千日回峰行は荒行中の荒行であり、

戦後、この荒行を満行した僧はわずか七人しかおりません。


千日回峰行は7年間かけて行われ、

第100日 1年目 毎日30km
第200日 2年目 毎日30km
第300日 3年目 毎日30km
第400日 4年目 毎日30km
第500日 4年目 毎日30km
第600日 5年目 毎日30km
第700日 5年目 堂入り
(9日間の断食、断水、不眠、不臥)
第800日 6年目 毎日60km
第900日 7年目 毎日84km
(京都大廻り)
第1000日 7年目 毎日30km


最後の100日は75日をもって満行となり、残りの25日は一生かけての行となります。

「堂入り」とは9日間、食と水を断ち、眠らず、横にもならず、

ただひたすら真言を唱え、不動明王と同体になろうとする修行です。


現在、藤波行者がこの千日回峰行に挑み、大津市の宝珠院住職で、2003年9月18日、

9年ぶり戦後12人目の千日回峰行の達成者となりました。

「十三仏」について

十三仏について

十王信仰に基づき閻魔王を初めとする冥途の裁判官である十王及び、その後の審理を司る仏をあわせたものが十三仏と言われております。

仏教では人間は六道の中で輪廻すると教えられておりますが、その六道とは、「 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天 」の 六つの世界をいい、我々の住む世界(娑婆)は、この六つの世界から成り立っています。

1〜3の三つを三悪道、4〜6の三つを三善道とも呼びます。

人間は人間界にいますが、この世で悪行を繰り返せば、畜生や地獄に生まれ変わり、善いことを積み重ねれば天に生まれ変わります。

これを六道輪廻(りんね)と呼びます。


十三仏は故人の魂をどの世界に連れて行くかの審理によって決めております。

審理は死後七日目から始まり七日ごとに行われます。
故人の追善供養が初七日に始まり、四十九日まであるのはこのためです。

1年、3年、7年、13年、33年の年忌が行われるのは、少しでも裁判の条件を良くしてあげるためと考えられています。



【カーン】

【バ ク】

【マ ン】

【ア ン】

【 カ 】

【 ユ 】

【バ イ】

【 サ 】

【サ ク】

【キリーク】

【ウ ン】

【アーク】

【タラーク】

不動明王 初七日

釈迦如来 十四日

文殊菩薩 二十一日

普賢菩薩 二十八日

地蔵菩薩 三十五日

弥勒菩薩 四十二日

薬師如来 四十九日

観世音菩薩 百ケ日

勢至菩薩 一周忌

阿弥陀如来 三回忌

阿しゅく如来 七回忌

大日如来 十三回忌

虚空蔵菩薩 三十三回忌

「般若心経」について



般若心経について

「般若心経」という言葉を誰もが一度は耳にしたことがあるかと思います。

しかしその般若心経が一体どんなものなのか?というと「分からない」という方がほとんどではないでしょうか?

ここではその般若心経を簡単に説明させていただきます。

そもそも般若心経というものは大乗仏教と呼ばれる仏教の中の派のひとつの中の「空」と「般若」思想を説いた経典の1つです。 僅か300字にも満たない本文の中に大乗仏教の心髄が説かれているとされ、多くの宗派において読誦経典として永く依用されております。

簡単に要約したものを下記にまとめましたのでご覧下さい。

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形があるものは実体が無いということと同じであり、実体が無いということは形があるということと同じである。

実体が無いので生じたり、無くなったりすることが無く、汚れることも清らかになることも無く、増えることも減ることも無い。

つまり実体が無いということの中に形あるものは無く、見たり聞いたり感じたりといった感覚も無ければ、それを意識すること無ない。

さらに老いも死も無く、それが無くなるということも、苦しみやその原因も無くそれを知る方法も無い。

得るものが無いということは悟りの状態にあり「知恵の完成」と言える。 それはあらゆるものから遠く離れているので、遮るものや惑わせるようなものは一切無く、永遠に穏やかな状態である。

過去・現在・未来と正しい教えを実践したものは「知恵を完成」させているので、この上なく悟りを得る事が出来る。

つまりは「知恵の完成」こそが偉大な真言であり、悟りを開く為の真言で、この上ない真言で、比べることの出来ない真言である。

これこそが真実である。



最後に知恵の完成の真言を述べる。

「往き往きて、彼岸に往きて、完全に彼岸にたどり着いた者こそ、悟りそのものである」



これは「知恵の完成」について述べた経典である。

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何となく分かっていただけたでしょうか?

最近、写経や座禅、精進料理などの修業体験が静かな広がりを見せておりますので、皆様も機会があれば一度体験してみてはいかがでしょうか?



「織田信長」について


織田信長について


【戦国時代の風雲児】



安土桃山時代の戦国時代に一躍有名となった、戦国の風雲児です。

今日では最も有名で、最も人気のある戦国武将の一人とされる織田信長ですが、 その名前を世に轟かせたのは、今川義元を破った【桶狭間の戦い】でした。

幼少から青年時にかけて奇抜な行動が多く、周囲から尾張の大うつけと称されていましたが、 それは将来【種子島】と呼ばれ敵将から恐れられる「鉄砲隊」を組織した挿話などに繋がります。

また、その苛烈さを物語る詩として「なかぬなら殺してしまへ時鳥(ホトトギス)」 も有名すぎるほど有名ですが、実はこの詩は信長自身の作ではありません。

当時、詠み人知らずで伝わった歌の引用で、信長の性格というよりもその自他を含めた生死を見極める決断力や気概を評価した歌であったようです。


鉄砲を戦に持ち込んだことからも分かるように南蛮品を好み、晩年は戦場に赴くときも、南蛮鎧を身に付けていたといわれています。
更に、黒人に興味を示してイエズス会の宣教師より譲り受け、彌介(やすけ)と名付け側近にしたとの史実があります。

時折耳にする【第六天魔王】のあだ名は、武田信玄が送った書状に『天台座主沙門信玄』と記してあったため、返書として『第六天魔王』と署名した手紙を送ったというものから。

多くの人がご存知のように、桶狭間の戦い以後、数々の武勲を挙げた織田信長でしたが、目指していた天下統一を成し遂げることなく、本能寺の変で明智光秀の謀反に遭い、自害したとされています。
ただし、城の焼け跡から遺体が見つからなかった為、別の場所で自害した説もあります。




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