「真田幸村(信繁)」について


真田幸村(信繁)について


【穏かなる軍師】



江戸期以降、講談や小説などで真田十勇士を従えて大敵徳川に挑む天才軍師・真田幸村(さなだ ゆきむら) として取り上げられ、本名の真田信繁(のぶしげ)ではなく、通称で広く一般に知られることになった武将です。

信繁の人柄は、兄・信之の言葉によると柔和で辛抱強く、物静かで怒る様なことは無いという、 およそ勇猛な武将のイメージとはかけ離れたものであったようです。

しかし、軍才に秀でた信繁の活躍については、 慶長19年(1614年)に始まる「大坂冬の陣」、続く翌年の「大阪夏の陣」での戦いが最も有名です。


実は、「幸村」の名前が史実に登場したことはこれまでに確認されておらず、 江戸時代の軍記小説作家によって作られた創作であるという説が有力です。
これは、彼が存命中に書いた書状には「信繁」や「弁丸」(幼名)の署名はありますが、 その他の信頼できる文献においても幸村という名は全く資料として発見されていない為です。

では本来の「信繁」ではなく、なぜ「幸村」という名前で呼ぶようになったのでしょうか?

その理由については諸説あり特定できていませんが、3つ程あります。

・伊達綱村の「村」と真田氏の諱である「幸」を組み合わせた
・姉である「村松殿」の「村」と真田氏の諱である「幸」を組み合わせた
・大坂の陣で「信繁」が「幸村」に改名した


没後、講談や小説などで描かれる、真田幸村や忍者部隊など幸村の家臣達が活躍する物語が人気になり、 本来の「真田信繁」ではなく、「真田幸村」の名前が急速に広がっていきました。